部室の扉に手をかけた癒音は、そのまま動きを止めた。聞きなれない声が漏れてくる。
なにを話しているのかは聞き取れないが、沢村よりも張りのある朗々とした男の声である。
会話の邪魔にならないようにそう、と扉を開けると、背の高い男の背が見えた。
向き合っていた沢村が、こちらに気づく。
「ほら、癒音も来たんですから、さっさと帰ってください」
「つれないなあ」
その手のひらは、妙になれなれしく沢村の頬に触れる。
沢村は鬱陶しそうに、しかしぞんざいになりすぎないようにそれを払うと、ため息をついて癒音を呼んだ。
「立ってないで座れよ」
「いいですよ」
「俺も座るからさ」
耳を心地よく震わせる役者のように明瞭な声と共に、左肩に暖かいものがのせられた。
振り返ると、先程沢村と話していた男の手であることがわかる。
なかなか美男子といってよい顔立ちであるが、やたらに体を触れられるのには抵抗がある。
「先輩、困ってるんでやめてくれます、」
「あー、はいはい」
左手をひらひらさせて、右手でさ、と椅子を引く。自然にそんな動作が出来るのだから、きっと女に慣れているんだろう。
同じ扱いというのは不満だ。
「座りなよ」
ためらいはあったが、年上の勧めを断るのは気が引ける。
大人しく腰かけた癒音の右側に彼が、左側には沢村が座った。間に挟まれる形だ。居心地が悪いが立ち上がることも出来ない。
「君、富月くんだろ」
顔が近い。頬に吐息が掛かる。
「科学工作部に用なんじゃないんですか」
沢村の声も刺々しい。
「いいんだよ。……かわいいね」
後半は癒音に向けられたものだ。
思いきり眉を寄せてしまった。
「そういうのは、好きじゃないです」
癒音が口を開くと、酒谷は少し驚いたような顔をした。それが、楽しげな笑みに変わる。
「俺は、ここのOBだよ」
「え、」
華やかな容貌からは、運動部で活躍しているならまだしも、黙って文章を書くなんて想像しにくい。
「酒谷先輩。去年の部誌読んだだろ? ライムネェドって短編」
「ああ」
恋人に捨てられた男がライムネードをひたすらに飲む、という、変わった小説だった。
綿密に計算された構造と、シンプルでありながら力強い文章。学生離れした実力に感動を覚えたのだが、書いたのがこの男であるなら、少し残念な気がする。
「あれの締め切り前日に、律夜がジュースの瓶なんか投げつけてくるからさ。下らないだろ?」
左から、沢村の溜め息が聞こえた。
「全く、なにしたんだか」
「いや、別に大した、」
言葉を遮るように、電子音が鳴り響いた。映画の主題歌かなにかにタイアップされた流行りの女性歌手のラブソングだ。
酒谷は鞄から携帯電話を取り出した。着信音だったようだ。
「……ああ、もう来てる。……行くよ」
通話をしながら、手際よく荷物をまとめている。立ち上がって、出ていくのかと思うと癒音の耳に唇を寄せた。
「また、来るよ。君に興味があるんだ」
ぞく、と覚えのある冷たいものが体を走っていく。
顔を上げた癒音を見ることもなく、空いた手をぞんざいに振って酒谷は部屋を出ていった。
「なんなんだ、あの人は」
呆れたような沢村の声を聞いたあとも、癒音の耳には酒谷の言葉がこびりついたままだった。

無性に会いたい人がいる。