エレベーターが七階に着くとあの不愉快なノイズはほとんど感じられなくなり、開きかけていたケイの額の目もす、と閉じた。自分の力の波を感じない。まるで体の中のもう一つの生き物である“力”が強制的に眠らされているようだ。外来に来たことはあるものの病棟に足を踏み入れるのは初めてのケイにとって、未知の感覚は快とも不快とも言い難く違和感が大きい。
「道野、行こう」
瑞穂の声に、ケイは、はた、と我に返った。中学生たちはいつの間にかエレベーターを出ていて、ほとんど無意識で押し続けていた開ボタンから指を離して外へ出る。
「何号室にいけばいいんだ」
「703だって」
聞くか聞かないかのうちに先へ進んでいってしまう。
病院に着いてからというもの、瑞穂はやたらと早足だ。自分一人でさっさと案内図を見つけてじっと見たかと思えば病室の方へ向かってずんずん歩いていく。
そのくせ部屋に近づくたび緊張していくのも、額の目は開いていなくとも感じ取れた。
ケイはなにか、瑞穂を落ち着かせる言葉を掛けてやりたかったが、見つからない。
そうこうしている間に瑞穂はもう病室のドアの前に立っている。



「談話室?」
「ええ、今はそこしか空いていなくて」
受付の女性が申し訳なさそうに談話室への道を説明してくれる。茶羅はよく分かっていないようだったが、癒音は何度かカウンセリングで使ったことがあったため場所を思い出すことが出来た。
「まずそこのエレベーターで七階に上がってくださいね」



「また事件のことを思い出すことになるけど大丈夫かな」
「はい」
茶羅が癒音の左手をもう一度ぎゅっと握った。落ち着かせるように握り返してカウンセラーにうなずく。
「事件が起こった日は?」
「三年前の三月十二日」
「起こった場所は?」
「グリーンモール」
「その時は一人だった?」
「二人。兄さんも少し離れた場所に」
カウンセラーがバインダーに挟まれた手元の書類に何かを記入しているのも、決まった質問が初めにいくつかあるのもいつものことだ。それでもこの緊張感はいつまで経ってもなくならない。
「最近何か変わったことはあったかな」
「……」
酒谷から聞いた話を、するべきだろうか。癒音は唇を噛んでうつむく。急にここへ来ることになったから、まだ茶羅にも話していないのだ。彼の言う“推測の”話を。
「事件に関係のないことでも何でもいいんだよ」
カウンセラーの言葉に、茶羅がなにか言いたげに視線を送ってくる。鏡月のことを話せ、ということだと思う。そうだ、とりあえず彼の話だけでも。
いつの間にか手にはびっしょり汗をかいている。そういえばこの七階のフロアに足を踏み入れてから立ちくらみの前兆のような、ふわふわと頭が揺らされる感覚を覚えていたのだった。それが少し強まったような気がする。
「実は、転校生が来て、」
そこまで言うと癒音は目を閉じ、それから細い息を長くゆっくりと吐き出した。それから傍らに座る茶羅を見上げる。癒音が好きだからと両親に嫌な顔をされても染め続けている黄色の髪。綺麗だ。そう思うだけで、自分がずっと昔から変わらない自分であることを感じさせてくれる。何も変わらないんだ、あの時からずっと。
「……その、鏡月も、俺とは違う事件に巻き込まれて」
「事件。……もしかしてつい最近起きた?」
「はい。鏡月はそれで、力をかくせ……」
突然、鈴の音が頭の中でけたたましく鳴りだした。いくつもの鈴を頭蓋の中に詰め込まれたような大きな音だ。癒音は思わず手で頭を覆いたくなったが、気付けば体は全く動かなくなっていた。
「癒音? 癒音! 大丈夫か!」
襲いかかるよう凶悪な騒音の向こうで叫ぶ兄の声が微かに聞こえる。しかし、落ちてくる瞼を持ち上げることさえ癒音にはかなわなかった。



ノックの返事はなく、そっとドアを開けると葉山は眠っていた。
二人で静かに中に入るとケイは瑞穂をベッドのそばの椅子に掛けさせた。
あの学校では誰もが大人のふりをしようとする。葉山も例外ではない。思いつめたような顔で瑞穂が見つめている寝顔は、いつも二人が見る人を食う様な態度をとる彼からは想像もつかないほどのただの子供のそれだ。
「出直すか」
「……少し待つ」
「分かった」
起こさないように小さな声で短い会話をした、瞬間。大きな力の波が二人を襲った。
「これは、」
言葉を継ぐことが出来ない。額に鋭い痛みが走り、頭はぐわんぐわんと揺さぶられるようだ。瑞穂はぐっと拳を握りしめて縮こまりしゃがみ込む。物を燃やさないようにしているのかもしれない。
「瑞穂、外」
先程まで夕方前の穏やかな日差しが差し込んでいた窓の外が今は真っ暗だ。何も見えない。暗いというよりも黒く塗りつぶされたようだ。
「葉山は、」
ベッドの方を見ると、穏やかな寝顔に変わりはなく、力が暴走して周りを濡らすようなこともしていない。暴走している額の目をなんとか彼に向けてみるが異常な力の波は感じ取れなかった。
「俺たち二人だけ、なのか」
ケイがうなずくと、瑞穂は苦しそうに目をつぶりながら僅かに安堵のため息をついた。
どれだけの時間そうしていただろうか、大きなうねりは少しずつ落ち着いてきていた。だが外部から体をこじ開けられて無理やり力を放出させられるような感覚は続く。これはまるで、
「あいつの近くにいる時みたいだ」
無愛想な転校生の顔が脳裏に浮かんでケイもうなずく。が、いや、これは。
ケイの額の目が何かを捉えた。感覚がそこへ引きずり込まれた、という方が近いかもしれない。脳内に浮かぶイメージには、見覚えはあるが彼とは違う人間がぼんやりとした像で浮かんでいる。
「富月?」
ぐったりとして兄に抱きかかえられている彼の、閉じられていた目が、そうっと開く。それは、深い海の色だった。無音と暗闇が支配する海の底の寂寞の色。それを見た瞬間、ケイは自分以外の誰かの悲しみの感情で胸の中が満ちていくのを感じた。これは、富月のものではない、ような気がする。

一体、誰の――

バチンッとケーブルを引っこ抜かれたように感覚の接続は突然遮断された。体の違和感も小さくなっている。
「瑞穂、行こう」
怪訝そうな顔を向ける瑞穂の腕を掴むと、病室を出て今度はケイの方があの部屋の方へせかせかと向かう。
「道野」
瑞穂はなにか言いたげに名前を呼んだが、それ以上は何も言わずに着いてくる。
問われても分からない。何がケイを動かしているのか。
廊下の窓も真っ暗のままだ。それがケイには、海底を思わせるあの悲しみそのもののように見えた。


悲しいなら、どうしてそこにいるの