気がつくと、病院の見慣れた白い天井と心配そうな兄の顔が目の前にあった。
「癒音、だよな?」
こんなに小さくゆっくりとした話し方は珍しい。不思議な問いに戸惑いながら頷くと、茶羅は安心したように長い息を吐いた。
いつの間にか手を握られている。兄らしくもない弱々しい力だ。カウンセリングを受けていたことまでしか覚えていないが、また何か心配をかけてしまったことだけは分かった。
「富月、」
茶羅の後ろから声を掛けてきたのは、道野だった。中等部で同じクラスだったことはあるが、ほとんど話したことはない。それでも額で開く目を見れば彼であることはすぐ分かった。
「茶羅先輩、俺が話していいですか?」
「ああ」
癒音の頭に優しく手をのせて茶羅が応えると、道野は淡々とした口調で癒音が意識を失っていた間の出来事を語りだした。


「……分かった」
誰かに体を乗っ取られるなんて、何も知らないままなら到底信じられなかっただろう。だが、既に七と共に酒谷から奇妙な話を聞かされていた癒音には、もうそこまでの驚きはない。
「驚かないのか?」
動じない様子の癒音に、道野は意外そうな顔をした。
「もう色々聞いていたから」
「聞いてたって?」
「酒谷先輩だよ」
その名を出すと、道野とその隣に立つ同級生らしき男が顔を強張らせた。特徴的な赤みがかった髪には少し見覚えがある。確か道野と同じクラスだったか。
警戒する気持ちは癒音にも分かった。重大な話を打ち明けられても尚、癒音には酒谷の本当の考えは読めない。
それでもその言葉を信じたのは、自分の中に確かにその“力”を感じたからだった。
そして、今も感じている。
「鏡月の力は、伝説の中に出てくる鬼の力だって」
Aクラスの二人が顔を見合わせる。七と二人でこの話を聞いたときの癒音も同じ反応をした。人ならざる者は学校で何人も見ているけれど、鬼は流石におとぎ話の領域だ。
だが癒音が真面目なトーンで淡々と語るからか、誰も茶化そうとはしなかった。
「伝説の中では、数百年に一度鬼の力を持つ者が生まれて、それと同じ頃に鬼の『飼主』も生まれることになってるんだ」
癒音が何を言うのか分かったのか、茶羅は小さく息を飲んだ。癒音は安心させるように、頭に置かれた手の上に自分のものをそっと重ねる。
「その『飼主』が富月ってことか」
「うん」
「……それは、どういう役割なんだ?」
不安そうな兄の問いに、癒音はすぐには答えられなかった。あの時の恐怖がまた、癒音の胸の中を支配したのだ。
自分のこの恐ろしい力を、受け入れてもらえるのだろうか。
――ねぇ、俺のこと怖いでしょ。
そうだ、部屋を出た時に七にもそう聞いたんだった。
癒音が無意識に握りしめていた手を、そっと解いてくれた。
――大丈夫だよ
頭の中で再生される七の穏やかで優しい声に、癒音はまた救われるような心地がした。
今はもう、真っ赤になるほど手を握らなくても向き合える。
「……鬼の力を弱めたり、消したりできるんだ」
「消す……?」
三人の動揺は当然のことだ。能力者にとっての力は、生命力そのものであることも珍しくはない。だからこそ、能力を与えること、弱めること、そして消すことは禁忌とされている。
暫くの間、重い沈黙が落ちた。
「……富月って鏡月と何か関わりあったか?」
道野が怪訝そうな声で聞くのを首を横に振って否定する。
「それなんだけど、」
癒音はあの時の酒谷の言葉を間違えないようにもう一度頭の中で確認した。人とこんなに長い言葉で話すのは久しぶりだ。
「酒谷先輩が言うには、鬼の力を受け継ぐのは本来鏡月とは違う家の者で、『飼主』の力も本当はその家系に関係する人が得るものらしい」
「じゃあ……」
「多分、事件が関係してる」
「そういうことだよな」
道野が少し気まずそうな顔をするのを見ながらじっと押し黙っていた赤茶髪の男が、鋭く光る深紅の瞳を癒音に向けると口を開いた。
「それを何で俺たちに話すんだ」
切り裂くような眼差しは怒りや苛立ち故かと思ったが、恐怖だと気付いた。その気持ちが癒音は痛いほどに分かる。
「『飼主』は基本的に攻撃が出来ない力を持つんだ。だからそれを守って『飼主』が力を行使できる状態にする『守護者』がいて、その中で俺と一番結びつきが強いのが、七らしいんだけど……」
癒音には茶羅の目がギラッと光ったように見えた。兄が嫉妬するだろうな、というのも癒音が中々打ち明けられなかった理由の一つだった。
「先輩からは学内で他にも何人か『守護者』の力を持っている人の気配を感じたって聞いていたんだ。それで、今二人を見たら分かった」
「俺と川口も、か」
「うん」
川口、と呼ばれた男はじっと押し黙っている。道野は表情を大きく変えないままだが、何か考えているように軽く頭を掻いてから口を開いた。
「鏡月がこのままだと危険なのは、さっきのやつの話で分かったけど、力を弱めたり……消したりして大丈夫なのか?」
「分からない。でも放ってはおけないよ。とにかく文化祭で鏡月のお兄さんに会ってみないと」
「……どうする」
道野が、隣で俯く川口に問いかける。
「俺は、手伝う」
鋭い目が再び癒音を射抜くように見た。
「葉山が辞めるのも鏡月に関係してるだろ。本当のことが分からなきゃ納得できねえ」
川口の言葉の後、道野も頷きで癒音に応える。
「俺も、何も役割がなくても癒音を守るからな」
それまで静かに聞いていた茶羅も、いつもの頼もしい笑顔に戻り、ぐっと拳を握る。
癒音を見る兄の眼差しは、力強くて優しい。頭を撫でる手に、あの時と同じ涙がまた零れた。



何故だか分からないけど、君もなんだ